697.梅津美治郎陸軍大将(37)東條君が陸軍大臣をやられると???!阿南惟幾陸軍大臣当時と梅津美次郎参謀総長当時は仲が良かった

697.梅津美治郎陸軍大将(37)東條君が陸軍大臣をやられると。阿南惟幾陸軍大臣当時と梅津美次郎参謀総長当時は、仲が良かったのでしょうか?映画「日本のいちばん長い日」を見ました。その中で阿南大将と梅津大将の交流の描写が描かれてなかったので、疑問に思いました。阿南大将と梅津大将はお互いに戦争の継続と本土決戦を主張していた継戦派として有名ですが、史実ではどういった関係だったのでしょうか?お互いに陸軍のツートップでしたので、当然本土決戦に向けた戦略などは何回も話し合っていたと思いますし、陸軍の意向を決める立場でしたが、個人間にはそんなに仲が良くはなかったのでしょうか?おそらくは個人間では、腹をわって話し合える間柄というほどではなかったと思います。阿南大将とそういった間柄だったのは、安井藤治国務相だったと思います。それでもって、お互いに゛本土決戦は不可能゛、゛ポツダム宣言受諾は不可避゛、゛戦争継続を叫ばないとクーデターが起こる゛と悟っていたからこそ、暗黙のうちに同じ戦争継続の主張になったのではと思います。阿南大将が自決した後、その遺体を入れた棺を持ってきて火葬する場に、梅津大将が居り、悲壮な顔をしていたと、「日本のいちばん長い日」の本に書かれてました。これは、阿南大将と対立していた、米内光政と同じで、阿南大将の元に訪問しておりますが、米内光政と梅津美大将の違いとしては、梅津大将と対立はしていなかったことでしょうか?阿南大将と梅津大将の意見が割れたというのは聞きませんので。また、阿南大将と梅津大将が腹をわって話し合って、こういう形で終戦に持っていこうと決めていたのでしょうか?もし、そうなら歴史の表に出てこない場面でしょうが。阿南惟幾陸軍大臣と梅津美次郎参謀総長との関係性はどんな感じだったのでしょうか?東條英機のように自分に都合が悪ければ、その場から引き摺り落としてやるような、関係だったとは、思えませんが。いずれにしても、終戦末期の鈴木内閣の顔触れは、天皇からの信頼のあつい人物が中心でしたが。

17。17藤原直哉と昭和天皇実録を読む昭和~6月30日これまでに陸軍、 海軍が相当に追い詰められた戦況の中、1日延ばしに 。 当時何が起こり、今の私たちに、そして未来へと結びついてくるのか、一緒に学びましょう 最高戦争指導会議構成員?内閣府総理大臣鈴木貫太郎?外務大臣東郷茂徳?陸軍大臣阿南惟幾?海軍大臣米内光政?参謀総長梅津美治郎?軍令部総長豊田副武?懇談会?戦争の。

この二人はともに派閥意識の薄い軍人同士でしたし、それまでの経歴の中でも個人的な接触は少なかったので、あまり「肝胆相照らす仲」的な関係では無かったように思います。ただ、同じ大分県出身でしたし、当時の日本軍にはもうまともに戦える力は無いというのを軍政と統帥のそれぞれの責任者として痛いほどよく理解していましたから、基本的な認識に関してはある程度一致してはいたでしょうね。また、梅津は東條英機の後任として参謀総長の座に着いてから、周到に配慮しながら主戦派と目される軍人を中央から動かし、強硬な主張を行う人間を飛ばすという人事を着実に行って参謀本部の中を完全に掌握していました。終戦時にクーデターを企図して行動を起こそうとしたメンバーは皆一様に陸軍省の人間で、参謀本部側の人間がほとんどいないことからも、そうした梅津の姿勢や態度が影響していたのは間違いない所でしょう。阿南の方はそこまで徹底しきれはしなかったものの、やはりある程度終戦を見据えて行動していたことは間違いないといえます。ただ、その一方で「このまま負けたのではあまりにもみじめだ、なんとか陸軍のメンツを守りたい」という気持ちも強かったために、心境や行動にブレが生じていたようにも思えます。阿南がクーデターの企図を持ちかけたのはその表れですし、梅津がそれを言下に退けたのは、やはり梅津の方は肚がしっかりと定まっていたからだったのでしょう。

戦争を止めた阿南惟幾陸軍大臣の就任。膨大な終戦資料の中から大きく浮かび出てきたのは、陸軍大臣阿南惟幾大将の姿だった 当時の指導層の人々の本心が、しばしば彼らの発言とは裏ハラのものであることの一例である 鈴木の希望を聞いた杉山は、別室で梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監と三長官会議を開き、阿南の承諾を得た後、大臣室に戻り、三条件を付して。

13。当時何が起こり、今の私たちに、そして未来へと結びついてくるのか、一緒に学びましょう 世伝御料ニ属スル土地ニ埋蔵セラルル鉱物ニ関シ鉱業稼業ヲ容認スルノ件? 枢密院会議?陸軍大臣阿南惟幾?人事の内奏?ビルマ国防軍の背叛?内閣総理大臣鈴木貫太郎以下の新閣僚ほか総勢20名?軍令部総長及川古志郎?第2艦隊の解散につき奏上?参謀総長梅津美治郎?欧州の戦況?在支兵団一部の終結命令?対米。

697.梅津美治郎陸軍大将37東條君が陸軍大臣をやられると。 ところが、阿南惟幾大将は当時第二方面軍司令官として、豪北方面にあって対米作戦に専念していた。 この参謀総長?梅津美治郎大将の提案に対して、陸軍大臣?東條英機大将が、次のように述べて、反対した。 「阿南君は最も適任と思うが、。日ノ本は此処にあり。今作では、山下が後の戦いで必要だと身を案じた梅津美治郎参謀総長が、レイテ決戦時に投入していた三式潜航輸送艇まる 。 クーデター後、梅津参謀総長の後押しこれには梅津から天皇陛下への奏上があったによって、阿南内閣の陸軍大臣に就任して 。 今作では、梅津がクーデターに気が付いたのは、事が起こった後であり、首謀者に阿南 惟幾陸軍大臣当時が居たため、折れて阿南内閣では参謀総長を続投して勤めている。

梅津は当時の陸軍でもエリート中のエリートとも言えました。陸大出の主席ですが、同期の二期は現代でもやたらと天才と持ち上げるファンが多い永田鉄山です。ただ、梅津は寡黙な人物であったとされて、同時の陸軍軍人の中にも「よくわからない奴」と思っていた人間は少なくありませんでした。ただ昭和天皇からは不思議と信頼感があったようで、戦前の陸軍大臣の選任にあたって畑とともに候補としてわざわざ言及されています。 一方の阿南はこれまた現代でも、メディアやそれを無邪気に信じる人によって妙に誤解されている人物と言えます。一番の原因は、終戦間際の言動について良く持ちだされる「腹芸」ができることと、決して知的ではなかったのですが如才のない振る舞いのおかげでした。 こんな二人は、一時期の永田と小畑のような私的交流があったとは伝えられていませんが、近い関係にあったと言えます。より具体的には、同じ大分県出身なのもあって、とっつきにくい梅津とは阿南はうまく付き合えるコツを心得ていたと言えます。 二人の関係が歴史上表舞台に出てきたのは、広田内閣が倒れて宇垣が首相になるとなったいわゆる宇垣流産内閣です。 この時、梅津と阿南らは陸軍の官僚をまとめて宇垣反対の運動を繰り広げます。一連の騒動について石原ばかり注目されますが、石原は最後の段の会議ででしゃばっただけで、それ以前に主導し、直前の会談で一度は宇垣首相を承諾した寺内を黙らせたのはこの二人です。阿南はそれにとどまらず、大命拝受のために宮城に向かおうとした宇垣のもとへ当時の中島憲兵司令官を派遣して恫喝までさせるえぐいことをやっています。阿南は米内内閣時の畑陸相辞表提出問題でもそうですが、こういう悪辣な、文字通り尾「腹芸」を得意としていました。>戦争継続を叫ばないとクーデターが起こる 彼らはクーデターを警戒して継戦を反対していたのではありません。 軍人としてなお継戦ができる、あるいはある程度の打撃を与えて多少でも挽回できるとの希望があったからこそ継戦を主張していたのです。クーデターの発生などろくに恐れていませんでした。 もっと言えば、史実で阿南がそのクーデターの根本だったわけですし。大体クーデターを首謀したのは阿南管轄下の陸軍省の軍官僚、それも秘書官林からは「秘書官になって、阿南のことを直接知った自分より、ずっと彼と近く、よく密談していた」関係の子飼いの連中ばかりです。クーデターが史実のような中途半端になったのは、”阿南より相談を持ちかけられた”梅津が反対したからです。本心から阿南が反対なら、自分の手下の稲葉や竹下をどうにかすれば良かっただけです。クーデター派が史実のように暴発したのは、梅津がクーデター賛成に転じたとの誤報に接したのも一員で、阿南はこれを聞いて驚いています。>終戦末期の鈴木内閣の顔触れは、天皇からの信頼のあつい人物が中心でしたが。聖断が下った後に、「まだやれるよ」と放言と公言して秘書官に諫言され、宮様から叱責を受け、自分に近しい手下によるクーデターが起こるや陸軍省に籠り切り、そんな人物に昭和天皇も冷ややかだったことを考えれば信頼の厚い人物が中心とはとても言えないと思いますが。

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